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想い出cameraパートⅢ

#1007 末松廃寺

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3月6日撮影 ISO400 RAW現像




末松廃寺は、今から、1350年前の白鳳時代に建てられた古いお寺です。この末松にあったお寺は、いまはもうなくなって名前もわからないことから末松廃寺と呼ばれています。

末松ではむかしから、「カラト石」と呼ばれる大きな石が田んぼの中にあり、まわりから瓦や土器などがたくさん出ていたので、江戸時代からお寺の跡(あと)であることがわかっていました。「カラト石」は、塔の中心にある心柱(しんばしら)を支えた石で、とても大きいことから、塔は七重塔(ななじゅうのとう)と考えられています。

末松廃寺を建てた豪族(ごうぞく)は、加賀地域の北側を治めていた「道君(みちのきみ)」とされていますが、末松廃寺の瓦は、現在の能美市で作られていたことなどから、この地域の「財部造(たからべのみやつこ)」という豪族も加わっていたことが考えられています。

この時代のお寺は、今のように誰でもおまいりにいけるようなところではなく、このお寺を建てた力のある豪族の人々だけがおまいりできるところでした。

とても重要な遺跡(いせき)であるため、遺跡の場所は1937年[昭和12]に国の史跡(しせき)となり、現在は、「カラト石」が見学できる桜のきれいな公園になっています。

※白鳳時代は大化の改新[645年]から都(みやこ)が奈良(なら)にうつるまで[710年]の間のことで飛鳥(あすか)時代に含まれます。

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公園部の総面積は2.3ヘクタール、西の金堂規模は東西19.8m、南北18.4mと東に塔を配置した法起寺式と呼ばれる伽藍配置だったようです。このことから官営要素の強い寺院だったと予想されています。
金堂の大きさは当時の標準サイズなのですが、塔の心礎となった唐戸石の大きさや基礎底辺10.8メートル、発掘の瓦欠から七重だったのではないかと推測されていました。この規模・時期の寺院建築は加賀には類例がなく、北陸最古の寺院跡と云われています。このことから昭和14年(1939年)に国史跡指定を受けていました。

昭和36年(1961年)に金堂横の水路跡から和同開珎の銀銭が発見されました。当時、和同開珎は日本最古の製造貨幣となっており、そう記憶している人が多いと思います。現在でも日本初の流通貨幣と考えられています。その中で、銀銭は和銅元年(708年)5月~翌年8月までしか製造されていないため、希少な発見として正式調査がなされ史跡公園としての保存が決定されました。昭和46年(1971年)に全国では3番目、県内初の史跡公園として整備されました。

日本最古の貨幣についてですが、現在の教科書では富本銭が最古となっています。一部には無文銀銭となっているものもあるようです。富本銭は古書(天武12年(683年)製造の記述)には記載されていましたが、昭和44年(1969年)平城京跡を皮切りに平成3年(1991年)に藤原京跡から発見され、平成11年(1999年)に飛鳥京跡や工房跡からも相次いで発見されました。特に飛鳥京からは年代を示すもの(水晶や瓦)と同時に出て最古の貨幣と認定されています。また工房からは製造途中の枝付が出て大量生産にかかっていたことがうかがわれます。ただ流通貨幣としては確認できず限定的な褒賞などに使用されたのではとされています。
また無文銀銭というものもあります。こちらは銀の塊に穴をあけたものですが、江戸時代にも西日本では流通していましたが、こちらは銀の重さで交換されたもので貨幣というより物品扱いですが、日本書紀には顕宗天皇2年(486年)に貨幣として使用した記述があります。

末松廃寺は最初の大規模寺院建立から約50~80年ほどで廃絶したようです。その後一世紀は空白ですが、その跡地に掘立型建物の寺院が再建されたようですが、規模は小さなものだったようです。平安末期以降には何も残されない状態の荒野もしくは手取川の扇状地になっていたようです。古代・飛鳥から平安時代にかけてはこの辺りは多くの遺跡や住居跡が発見されており、人口密集地だったようです。時代の変遷で閑村化した地帯ですが、当時の発展地帯でそれを代表したのがこの末松廃寺だったようです。

江戸時代になるとこの辺りは野原になっていたようですが、塔の心礎となっていた石だけがこの地に残されていました。地元では唐戸石と呼んでいたようです。
しかし地元では大きな寺院の伝承が残っていたようです。加賀藩士が天保年間にこの石の計測を行った記録が残っています。その際に唐戸石の名も出てきます。しかし明治に入ると農地改革で田園となりますが、水田の中にこの石があったそうですが近くの大兄八幡神社に移され手水石になっていたそうです。公園化と同時に戻され、現在のように市民の憩いの場になっています。

近年の発掘や研究や検証によって、少しずつですが判明してきたこともあります。
金堂側から発見された多くの土器や須恵器の年代測定から660年頃となり、創建もその頃と推測されています。660年は斉明天皇の時代で大化の改新後、中大兄皇子(天智天皇)が実権を握り、百済救援に出兵した白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に大敗した頃です。
更にこの須恵器に墨書書きされたものがあり、その文字が「朱仏寺」となっていました。当時の寺院名は本名の他に通称や愛称もありましたから、末松廃寺の正式な名はまだ不明ですが朱仏寺と呼ばれたのは確かです。また平安末期に建てられた再建寺については、いくつかの文書や伝承に「法福寺」の名が見られます。これも寺の名称の候補になっています。

唐戸石に関しても長い間、金沢城の石垣と同じ戸室石と思われていたのですが、手取川流域に流れ着いている安山岩と判明しています。また心礎としては巨石であり、類例から60メートル七層と推測がありましたが、考古学の進歩と宮建築の研究から心礎の穴の大きさから髙さが推測できるようになり(塔の高さ=心礎穴直径X40)、24メートルと判明しています。金堂の大きさ、伽藍配置が同じ法起寺の国宝・三重の塔とまったく同じ大きさとなります。地元歴史学者は法起寺を手本に建てたと推測しています。しかし、法起寺の塔の完成年度は慶雲3年(706年)で、末松廃寺の方が古くなってしまいます。もしかしたら、末松廃寺の方が法起寺の見本だったかもしれません。当時の北陸は朝鮮・渤海・中国の玄関になり実力・財力共に都を凌ぐものがありました。決して空論ではないと思われます。

創建した人物に関しては当時のこの辺りの豪族・道君(みちのきみ)一族が有力視されていますが、末松廃寺の瓦を焼いたかまど跡が能美市の湯屋で発見されています。ところが、ここは同時期の能美の豪族・財部(たからべ)一族の勢力圏でした。以前、ご紹介した河田山古墳群の被葬者の有力候補です。この件に関しては謎が深まるばかりです。情勢を考えれば、やはり国が立案者となって、道君・財部が協同で造ったというのが妥当かもしれません。

ちなみに道君一族は手取川以北を地盤にした豪族ですが、天智天皇にも娘を輿入れさせています(越道君娘(こしのみちのきみのいらつめ))、万葉歌人としても知られる第七皇子・志貴皇子はこの二人の息子になります。
称徳天皇の死で断絶した天武系の天皇に替わって即位した天智系の光仁天皇はこの志貴皇子の子供になります。

また、同族として見られている人物として道君首名(みちのきみのおびな)がいます。この人物も北陸から出た人物ですが、能吏として重用されており律令の選定にも任命され大宝律令の制定者の一人になっています。その後は筑後初の国司となり肥後の国守を兼任しています。その善政は地元民にも尊称されて、久留米の印鑰(
いんにゃく)神社 (夜明神社)の首名塚、熊本市・天社宮(高橋東神社)には祭神として祭られているそうです。
道君首名は都でも良吏の模範とされて、4位以上の高官(首名の最終官位は正五位上)しか載せない決まりの続日本紀にも例外で載せられています。死後150年後には前世の良吏として従四位に追贈されています。

とにかく不明点が多い史跡ですが、整備された史跡公園としては価値のあるものです。なお、この末松廃寺跡の発掘物や詳細は、御経塚遺跡の横にある野々市市ふるさと歴史館にありますから、両方を観るとばっちりです。

                                  


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                                    ネットより拝借
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Commented by iwamoto at 2018-03-17 13:01 x
昔、住んでいた街に、「唐戸市場」ってありました。
その市場で買い物してましたよ。 言葉の意味を考えたことはありませんでした。
中国へ向っての扉なのかと思ってました(小学校入学時)
Commented by yamaboushi53 at 2018-03-17 16:17
こんにちは
史跡の散策、けっこう楽しいですね。
そしてその当時の歴史を学習すると、さらに
身近なものに感じることができます。
愛知には古戦場跡がたくさんありますので、
機会があったら散策したいと思っています。
Commented by renchiyan3 at 2018-03-17 18:15
iwamotoさん こんばんは
付けられた名前の由来調べていくのも面白そうですね
Commented by renchiyan3 at 2018-03-17 18:17
ヤマボウシさん こんばんは
もしこの寺院が当時のまま残っていたら国宝になっていて観光
名所になっていたと思います そう妄想するのも楽しいですね
by renchiyan3 | 2018-03-17 04:35 | 神社・仏閣 | Comments(4)

やっぱりトンガリ帽子のカメラが好き・・・